バレンタインデーは、日本のみならず世界各国で「愛の日」として親しまれています。今ではチョコレートを楽しむ日として、自分へのご褒美や、友人や仲間とチョコレートを楽しむ人も増えていますね。
その歴史はとても深く、数々の変遷をたどってきました。
意外と知られていない「バレンタインデーの起源」に迫っていきます!
古代ローマの祭りから、キリスト教の祭典へ
今では、バレンタインデーという名称がついている祭典ですが、その起源をたどると、古代ローマの冬至祭の一つ(ルペルカリア祭)が原型になっていると言われています。
ルペルカリア祭はカーニバルの一種で、古代では男女の出会いを促す土着の祭り(どんちゃん騒ぎ)でした。
時を経て、ローマ帝国にキリスト教がもたらされると、異教の祭りを問題視する声が挙がり始めます。そして5世紀に、ローマ教皇グラシウス1世は、ルペルカリア祭の前夜祭(2月14日)を3世紀の2月14日に殉教したと伝えられる“聖バレンタイン”のための祝日とする決定を行います。
これは大衆の人気を集めていたルペルカリア祭を形式的に継承しながらも、中身をキリスト教化するのに好都合だったと考えられています。
聖バレンタインの殉教伝説
聖バレンタイン(ウァレンティヌス)とは、西暦3世紀の古代ローマの司教で、キリスト教の布教に尽力した人物でした。
時のローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスが、ローマ軍の士気が下がることを懸念して兵士の結婚を禁じる中、聖バレンタインは相思相愛にあった男女の結婚を取り計らいます。それが発覚して皇帝の逆鱗に触れ、2月14日に斬首されたという伝説が残されていました。
200年の時を超え、古代祭の代替として召喚された聖バレンタインでしたが、「愛の守護聖人」として中世に入っても人気が衰えることなく、宮廷行事にも取り入れられていきます。
プレゼントを贈る習慣や、カップリングをするくじ引きゲーム、豪華な食事などが楽しまれていたようです。
イングランドの詩人チョーサーの詩篇や、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』にもバレンタインデーにまつわる台詞が描かれるなど、「愛を誓う日」として市民にも浸透していたことがうかがえます。
バレンタインカードから、チョコレートへ
中世後期に郵便制度が整備されてくると、バレンタインカード(ラブレター)を意中の相手に送ることが、イングランドの上流階級の間で広まります。同時にクリスマスカードやバースデーカードの送付も広まったそうです。
チャールズ・ディケンズの小説『ピクウィック・ペーパーズ』に、バレンタインカードを送る市民のエピソードが出てくることから、19世紀初頭には庶民の間にも広まっていたことがわかります。
そして19世紀後半、リチャード・キャドバリーがイギリスで「ハート型チョコレート」を売り出したことが、バレンタインデーとチョコレートの最初の結びつきであると言われています。
イギリスでは、数ある贈答品の一つという位置付けのチョコレートでしたが、日本ではより強固なアイテムとして浸透していくことになります。
日本のバレンタインチョコレートは、戦前から!?
日本で初めてバレンタインのチョコレートが訴求されたのは、1936年2月12日にモロゾフ社が英字新聞に出稿した広告と言われています。
しかし、これは一般に広く知られることはありませんでした。英字新聞という限定的な媒体もさることながら、2週間後に二・二六事件が起こるなど軍国主義が加速する世相においてチョコレートどころではなかったようです。
戦後になり、製菓各社がハート型チョコレート商品を手がけるようになりました。
1960年には森永製菓が週刊誌の広告でバレンタインチョコレートを告知するようになったそうです。
当初は各社とも、女性に特化した販売戦略があったわけではなかったそうですが、チョコレートの購買層には女性が多かったことから、「愛の日」に「女性から愛を告白しチョコレートをプレゼントする」という日本型の習慣が定着していきます。
その後、「義理チョコ」「友チョコ」などのワードが使われるように、愛する人へ贈るという文脈以外でも広くチョコレートが楽しまれるようになりました。
今では、“チョコレートのシーズン”として、サロン・デュ・ショコラをはじめ各百貨店で様々な催しが開かれていますね。
いかがでしたか。
「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と噂されがちな一面もありますが、事実として世界中で「愛の日」として贈答のお祝いが行われ、長い伝統を背負った歴史があります。
さて、今年のバレンタインデーのチョコレートはもう決まりましたか?
皆さまにたくさんの素敵な思い出が生まれますように!
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ぜひお楽しみください。
参考文献:『バレンタインデーの秘密』(浜本隆志/平凡社)